今から1300年前の高句麗滅亡によってわが国に渡来した高句麗人のうち、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国の1,799人を716年(元正天皇の霊亀2年)に武蔵国に移し高麗郡を置いたと続日本紀に記されている。埼玉県の高麗の地は
この高麗郡の中心をなした地域と考えられている。
高麗王「若光」は高麗郡郡の長として広野を開き、産業を興し、民生を安定し、大いに治績を治め、没後に現在の高麗神社に祀られた。
侍念僧の勝楽は若光の冥福を祈る為に寺を建立しようとしたが果たせず亡くなった。勝楽の弟子弘仁は若光の三男聖雲とともに勝楽の遺志を継ぎ、751年(天平勝宝3年)にこの寺を建立し、師の遺骨を納めてその冥福を祈った。王が祖国から守護仏として持ってきた聖天尊(歓喜天)を本尊としたので聖天院の名をもって広く知られている。
その後、当山開基より約600年後の1345年(貞和年間)に法相宗を真言宗に改めた。以来当山は、高麗郷一帯の本寺として末寺54寺を擁し大いに興隆した。開山以来、当代まで実に千二百数十年、絶えることなく継承されている。
1580年(天正8年)には聖天尊を別檀に配祀し、本尊を不動明王とした。
2000年(平成12年)には、山腹に新本堂を建立し、同時期に在日韓民族無縁の慰霊塔が建立された。
[文化財と寺宝]
○銅鐘(国指定重要文化財)文応2年(1261年)物部李重作
○鰐口(県指定文化財) 応仁2年(1468年)渋江満五郎作
○高麗王廟(市指定文化財)
○阿弥陀堂並び阿弥陀三尊像(市指定文化財)
○山門(市指定文化財)
○不動明王並び両脇侍像(市指定文化財)
○聖天尊(秘仏)
○釈迦如来像(澤田政廣作) |